昔々のことである。
キリマンジャロ山麓に広がる大森林を、ある夜、山火事が襲った。そのただ中で、一匹の類人猿が死にかけていた。
彼をゴリと呼ぼう。煙火に追われて逃げ惑ううち、群れをはぐれ、ついに炎に包囲されてしまったのだった。
空気が薄い。炎熱と轟音で気が遠くなる。何時間も走り続けで、体力が尽きていた。地面は焼けそうに熱かったが、もう限界だった。ゴリは倒れた。
そのとき、彼の頭上で、ファイアストームが呼んだ雨雲が、ついに大粒の雨を落とし始めた。
夜が明けた。緑の森は焼け焦げた荒地に変わり果て、まだ燻っていたが、火災は鎮火していた。
そこに、一本の木が燃え残り、幽霊のように立っていた。青々と繁っていた葉は残らず焼け落ち、珊瑚色に輝いていた小粒の実の房は干からびて燃え殻のようになっていた。その、実を伝って‥‥
一滴の雫が、大の字になって昏倒するゴリのだらしなく開いた口に落ちた。
「苦い!」
頭髪(というか、それにあたる部位の体毛)が逆立ち、ゴリは跳ね起きた。
それが人類とコーヒーとの最初の出会いだった。
前夜の試練にもかかわらず、いつになく爽快な気分なのは、カフェインの影響で脳の血流が増加しているからだ。刺激のせいで、姿勢がまっすぐになっていた。ゴリは類人猿から猿人に進化したのである。
(この明晰な気分は‥‥)
彼は頭上に手を伸ばし、焦げたコーヒーの実を摘み取って、表面に残った露を舐めてみた。
(この雫のせいか?)
進化したおかげでゴリの推理力は大幅に向上していた。
(もっとこの雫を飲まなければ。そのためには‥‥)
アイデアが夜明けの光のように心に射した。
「昨日と同じことを起こすんだ。ただし、今度は苦しくないように」
前夜のことを思い出す。
炎。いや、その前に‥‥
(雨が何日も降らなかった。木々が乾いていた)
何かの陰になって、雨に濡れなかった消し炭を集めてくる。焼け跡だけに炭はたちまち山をなした。
(風が強かった。枝が擦れあって葉がザアザアと鳴っていた)
焼けぼっくいどうしを擦り合わせてみる。摩擦で熱くはなるが、これでは疲れてしまう‥‥
しかし何時間か試行錯誤を繰り返した末、ゴリは硬いまっすぐな枝と木の皮の紐を組み合わせた、原始的な火きり弓を手にしていた。すぐに小さな火花がおこる。
(火。いつでも呼び出せる、おれの火だ。おれは炎の精霊を操る力を手に入れた。次は)
ゴリの脳裏に、疾風のおたけびが蘇る。
(風だ)
ゴリは火種に顔を近づけ、息を吹きかけた。火は生き物のように反応し、徐々に育って、やがて炎をあげて燃え出した。ゴリはくらくらする頭を振って、次は何かであおごう、と思った。
(水)
近くの小川に走って、両手で水を汲んでくる。コーヒー豆を浸してある。そして手を炎にかざす。
「あちちっ」
当たり前だ、とゴリはコーヒーの木に手をついて、反省のポーズをとった。どうすればいい?
うつむくと、地面が目に入る。
昨夜の火事で焼けて、土が固くなっていた。それどころか、木灰が釉薬のように溶けて、所々ガラス質になっている。
(土が‥‥石のように)
再びアイデアがスパークした。
(土を、火で、石に変える。そこに、水を閉じ込める‥‥)
精霊使いゴリの朝は一杯のコーヒーから始まる。
土も、水も、火も風も、いまや彼のしもべである。水はけの良い斜面に開いた洞窟住居を出て、お気に入りのマグカップから芳しい液体をすすりながら見下ろす草原は、彼の王国であった。大火の傷跡から、日に日に立ち直りつつある。その草原を‥‥
一匹の類人猿が、無様に背中を曲げて、のろのろと横切っていく。
(待てよ)
あの不器用なぴょこぴょこ跳ねるような歩き方には見覚えがある‥‥
ゴリは斜面を駆け下りて、闖入者に追いついた。
「お前は‥‥」
声をかけると、その類人猿は、ぼんやりと曇った瞳でゴリを見上げた。その顔に、何か思い出そうとして思い出せないような、不満げな表情が浮かんだ。
「これを飲めっ」
ゴリが差し出したマグカップを素直に受け取り、類人猿は一口飲んだ。
「苦い!」
とたんに背筋がしゃんと伸び、髪が逆立ち、目は焦点が定まって知性の光にきらめいた。
(そうか、これが自分にも起こったのか)
ゴリが感心して見守るうちに、もう一人の猿人はゴリを見分けて目を丸くした。
「あっ! 兄さん!?」
「ラー、やっぱりお前か!」
猛火の中で生き別れになった兄弟だった。
「「いったい今までどうしてたんだ‥‥」」
二人は同時に言った。
どうすればこの奇跡の体験を伝えられるだろう?
いずれ何か思いつくだろう。
こうして歴史が始まった。
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